ログイン呼吸が浅くなる。
「お嬢様、本当にお加減が……」
「エマ」顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。
その純粋さが、ひどく痛かった。
「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」
「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」やめなければ。
その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。
やめなければ、また同じになる。
同じ朝を迎え、同じ家へ行き、同じ沈黙の中で十年を削って、最後にはあの冷たい石畳の上で死ぬのだ。たとえ最後に彼が泣いたとしても、その涙一つで帳消しになるほど、自分の孤独は軽くない。
思い出してはいけないような気もした。それでも、死の間際の彼の顔が焼きついて離れない。蒼灰色の瞳に浮かんでいた絶望。自分の名を呼ぶ声。頬に落ちた熱い雫。
なぜ。
どうして、そんな顔をしたの。
あなたは私を愛していなかったでしょう。
その問いが胸の奥で疼き、腹の底を熱くした。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、ぐちゃぐちゃに絡まった感情の中心にあるものだけは分かった。
もうたくさんだ。
もう、あんな人生はいらない。
「エマ、鏡を」
侍女が急いで手鏡を差し出す。銀の縁に小花の彫刻がある、見慣れた手鏡だった。そこに映った顔を見て、リリアーナはしばらく息を止めた。
若い。
本当に若い。
頬はまだ痩せこけておらず、目の下の影も薄い。睫毛は長く、翡翠の瞳は今よりずっと明るい色をしていた。蜂蜜色の髪は昨夜の眠りで少し乱れているものの、艶があり、痛みも少ない。唇は血色を保っていて、口元にはまだ「侯爵夫人らしい微笑み」の癖が刻まれていない。
知らない顔ではない。けれど、前世の終わりに近づくほど鏡の中にいた女とも違う。
これは、失う前の自分だ。
その事実に、胸のあたりがきゅっと縮んだ。
「……戻れるのね」
思わず零れた声は、誰に向けたものでもなかった。エマが「お嬢様?」と首を傾げる。リリアーナは手鏡をゆっくり下ろした。
「なんでもないわ」
戻れる。
人生も、選択も、たぶん。
ならば今度こそ、自分で選ばなければならない。
*
午前の支度は、ひどく現実的だった。
洗面用の水差しから注がれるぬるい水。石鹸のほのかな花の香り。髪を梳かす櫛の細かな引っかかり。コルセットを締める時の、肋骨の下にくる苦しさ。朝食のために部屋の外へ出れば、磨かれた廊下に春の陽光が細く落ちている。窓ガラスの向こうにはまだ硬い蕾の並木。給仕が運ぶ食器が小さく触れ合う音。バターの匂い。焼きたてのパンの香り。
すべてが昔のままだった。
昔のままなのに、リリアーナだけが違っていた。
食堂へ入ると、伯爵である父が新聞を読みながら片眉を上げた。向かいには継母のイザベラ、その隣に異母妹のマリアンヌ。前世と少しも変わらない配置に、目眩のような既視感が襲う。
「やっと来たか、リリアーナ。婚約前に体調を崩されては困る。自己管理くらいきちんとしなさい」
「……申し訳ございません、お父様」 「お姉様、顔色が悪いですわ。緊張なさっているの? でも無理もありませんわね。ヴァレンティア侯爵様ですもの。あれほど素晴らしいご縁、滅多にありませんもの」マリアンヌが無邪気を装って笑う。
その声を聞いただけで、前世の記憶がぞわりと肌の裏を撫でた。結婚後、彼女が何度も侯爵家へ遊びに来ては、哀れみと羨望をない交ぜにした目でリリアーナを見たこと。義母に媚び、使用人たちに気軽に指図し、帰り際に「お姉様って本当にお優しいのね」と囁いたこと。あの声の温度を、リリアーナは忘れていない。
「ええ。とても、緊張していますわ」
そう答えると、継母が満足そうに頷いた。
「当然ね。あなたのような子に侯爵家への縁談が来るなど、本来なら奇跡なのですから。くれぐれも失礼のないように。結婚後はエヴェルシア家の恥にならぬよう、慎みを持ってお仕えなさい」
「……はい」お仕えなさい。
妻ではなく、従僕に向けるような言葉だった。前世ではその言葉の違和感を飲み込み、自分が至らないのだと思い込んだ。だが今は分かる。この人たちは最初から、自分を娘ではなく、家門を飾るための駒として見ていたのだと。
銀のナイフを取る指先に力が入りすぎて、皿の縁に小さな音を立ててしまう。継母が眉を顰めた。
「リリアーナ」
「失礼いたしました」パンを切る。バターを塗る。口へ運ぶ。
寄進は本来、侯爵家の名でまとまって出す。 こんなに小口で分ける意味がない。 分けるなら、分けるだけの理由がいる。 だが理由の記載がない。「おかしい……」 思わず、唇の裏で呟く。 隣の棚で別の書類を確かめていたローレンスが、視線だけこちらへ向けた。「何か」 「まだ断定はできません」 「承知しております」 老執事はそれ以上何も言わない。 この人は、本当に必要な時しか口を挟まない。 それが今はありがたかった。 リリアーナは頁を戻り、同じ支出先が過去にどう処理されていたかを追い始めた。 一月前。 二月前。 さらに前年同月。 筆跡。 承認印。 附属の控え書類。 そこまでたどった時、初めて、線が見えた。 寄進先として記されている婦人会の名前と、実際の受領控えの名義が違う。 表向きは「南区婦人慈善組合」。 だが、添付されている簡易領収の宛先は「ローザ・ベルメル婦人」。 個人名だ。 しかもリリアーナは、その名前に覚えがあった。 前世、義母の午後の茶会でよく見た女だ。 年の頃は四十代半ば。 夫は没落気味の男爵。 だが本人は顔が広く、王都の婦人会を幾つも渡り歩き、寄進と紹介と小さな縁談を仲立ちしては自分の取り分を抜く、そういう女だった。アグネスは彼女を「世話好きの良い人」と言っていた。だがその“世話”の向かう先が、いつも義母に都合のいい家ばかりだったことを、リリアーナはうっすら覚えている。 次の紙。 その次。 名前は違うが、筆跡の癖が似ている。 同じ女の代筆か、同じ書記だ。 そして、さらに奥の整理箱からローレンスが取り出してきた古い補助簿を見た瞬間、完全に繋がった。 婦人会寄進金の一部が、別名義で服飾商会へ渡っている。 その服飾商会は、アグネス専用の仕立てを請ける店。 帳簿上は「支援衣類費」。 だが、品目の中にあるのは、明らかに孤児へ配るようなものではない。 薄手の絹手袋。 夜会用のレース。 装飾リボン。 色数の多い刺繍糸。 女たちの社交衣装を整えるための品ばかりだ。 しかも、その支払いの端数がもう一つ別の口へ流れている。 小さな香油商。 そこも、アグネスが贔屓にしていた店だった。 慈善の名目で金を出し、婦人会を経由したように見せ、
それを見つけたのは、昼と夕方のあいだの、光がいちばん薄くなる時間だった。 空は晴れていなかった。雨でもない。春の入り口に特有の、どこまでも白く曇った空が、侯爵邸の高い窓の向こうに広がっている。庭の枝先は細く揺れ、まだ固い蕾を抱えたまま、風のたびにわずかに鳴った。暖炉には火が入っていたが、大きく燃えているわけではない。赤く沈んだ炭が、ときおり小さくはぜる音だけが、静かな部屋に短く響いている。 侯爵邸の南側にある小さな会計室は、客を通すような部屋ではなかった。飾り気のない棚、背の低い書類箱、鍵のついた小さな整理箪笥、窓際には筆記台と、帳簿をひろげるための広めの机。花はない。香油の匂いもない。代わりにあるのは、紙とインクと、乾いた革表紙の匂いだけだ。 リリアーナはその机の前に座り、帳簿の頁を一枚ずつめくっていた。 表向きの理由は、共闘の一環だった。 侯爵家内部の金の流れ。 襲撃に繋がる不自然な支出。 内通者へ渡っている可能性のある小口の金。 そういうものを洗うために、セドリックが「見てほしい」と言ったのだ。 最初は断るつもりだった。 侯爵家の帳簿など、いくら今の自分が前世を知り、彼と同じ夢を見ているからといって、簡単に触れていいものではない。家の奥を覗くことになるし、何より、自分はまだ侯爵夫人ではない。ならないとも言っている。そこまで踏み込む筋合いがあるのか、と、最初は本当にそう思った。 だがセドリックは珍しく理詰めではなく、ただ静かに言った。「君のほうが気づくものがある」 それだけだった。 気づくもの。 その言い方はひどく曖昧で、だからこそ引っかかった。 自分の目で見たもの。 前世で受けた違和感。 義母の手つき。 実家の匂い。 帳簿の上では見落とされても、生活の中で不自然だったもの。 そういう“感覚の記憶”を、彼は今、必要としているのだと分かった。 だから来た。 侯爵家のためではない。 彼のためだけでもない。 少なくとも最初は、自分が生き延びるために、見ておいたほうがいいと思ったからだ。 それが、今は別の意味を持ち始めていることを、リリアーナはまだ言葉にしていなかった。 頁をめくる。 過去数か月分の小口支出。 厨房の増額。 馬具の買い替え。 客用ワインの補充。 庭師への季
「怖いのよ」 気づけば、ぽつりと口にしていた。 エマが動きを止める。 紅茶を注ぐ途中の手がわずかに止まり、それからゆっくり続きを注いだ。 聞いている。 でも急かさない。 その沈黙に甘えて、リリアーナはもう少しだけ言葉を続けた。「前みたいに冷たかったら」 「……」 「まだ、怒っていられるでしょう」 「はい」 「でも今は、細かいことばかり見てくる」 「はい」 「食べたかどうかも」 「はい」 「寒くないかも」 「はい」 「私がどうしたいかまで」 「……」 「そんなの、慣れてしまうじゃない」 最後の一言は、ほとんど独り言に近かった。 慣れてしまう。 それがどれだけ危険なことか、自分だけが知っている。 優しさは、最初は異物だ。 でも毎日少しずつ差し出されると、体がそれを当然のように覚え始める。 今日も温度がちょうどいい。 今日も食べられるものが出てくる。 今日も寒さへ先に気づいてくれる。 今日も、自分の意見を先に聞く。 そういう日々に慣れたあとで、それが失われたら。 たぶん、もう立てない。 前世の自分は、愛されていないと思っていたから耐えられたところもあった。 求めなければいい。 期待しなければいい。 そう自分へ言い聞かせることで、ぎりぎりまで立っていられた。 今度は違う。 期待してしまう。 信じてしまうかもしれない。 そうなってから失うのは、きっともっとひどい。「今度こそ信じて」 「……」 「また失ったら、どうしたらいいのか分からない」 そこまで言ってから、リリアーナは口をつぐんだ。 部屋の中が静かになる。 窓の外では、夕方の風が枝先を揺らし、日が落ちかけた白い光が少しずつ青みを増していた。 エマはしばらく何も言わなかった。 それから、カップを主人の前へ置き、やわらかく言う。「慣れてしまう前に、怖いと仰ってください」 「……え?」 「侯爵様に」 「そんな」 「お嬢様は、前は何も言えなかったのでしょう」 「……」 「なら今度は、怖いことを怖いまま伝えればよろしいのです」 「……」 それは簡単そうで、ひどく難しいことだった。 怖い。 慣れてしまいそうで。 優しさが当たり前になりそうで。 今度こそ信じそうで。 そして
「私は遅らせてもいいと思う」 彼はそう言ってから、一拍置いた。「だが、君はどうしたい」 リリアーナはその時、本当に言葉が出なかった。 どうしたい。 そんなふうに訊かれること自体が、久しぶりだったから。 父も継母も、たいていは「どうあるべきか」を先に言う。 伯爵家にとってどうか。 外聞としてどうか。 令嬢としてどうか。 そういう“あるべき”の中でしか、自分の希望を問われたことがない。 だから「どうしたい」とだけ聞かれると、逆に空白が広がる。 自分の本音を、そのまま口にしていいのだと、すぐには信じられない。「……遅らせるのは、少し怖いわ」 「どうして」 「待つ時間が伸びるでしょう」 「……」 「狙われるかもしれないって分かったあとで、“その日”が先に延びるのは、少しつらい」 そう言ってから、自分で少し驚いた。 こんな弱音を、そのまま口にすると思わなかったからだ。 だがセドリックは「分かった」とだけ言い、そこで会話を終わらせなかった。「では予定通りにする」 「……」 「ただし護衛を増やす。君が待つ時間をこれ以上長く感じない形で」 「……」 その時、胸のどこかが、ひどく静かに揺れた。 以前のように「危険だから遅らせる」で終わらせない。 かといって、こちらの恐れだけを優先して判断を雑にもしない。 意見を聞いたうえで、全体を組み直してくる。 そういう優しさは、派手ではない。 でも、じわじわと効く。 だから怖い。 こんなふうに、少しずつ意見を聞かれ、少しずつ気遣われ、少しずつ体のことを見てもらうことに慣れてしまったら、どうなるのだろう。 今度こそ信じてしまうかもしれない。 今度こそ、この人は変わったのだと思ってしまうかもしれない。 そして、もしまた失ったら。 失ったら、どうするの。 前世の終わりよりもっとひどいかもしれない。 少なくとも、今の自分はもう「愛されていない」と思い込むことで自分を守れない。 知ってしまったから。 あの人が最初から愛していたことも、守るつもりで沈黙したことも、同じ悪夢を見てきたことも。 知ってしまったうえで、また失うのは、きっと前世の何倍も痛い。 * 夕方、侯爵家の書類が届いた。 西の薬草院へ向かうまでの護衛配置表、宿場の変更
寒さもそうだった。 今年の春は遅い。日差しだけは白くやわらかくなっているのに、風の底にまだ冬が残っている。朝夕は特に冷え、庭へ出るだけで指先がじんと冷たくなる。侯爵邸の東庭の東屋で、共闘の話をしたあの日以来、リリアーナは風の匂いに少し敏感になっていた。外の空気は息がしやすい。だが、長く居れば体温を奪う。「それでは足りない」 ある日、東屋で書類を広げていた時、セドリックはそう言った。 西へ向かう際の関所用の通行証と、薬草院での滞在名目の文面を、最終的に侯爵家側で確認してもらう必要があった。伯爵家の書斎で父と向き合うより、外の東屋のほうがましだと、リリアーナが自分で言ったのだ。エマがショールを肩へかけ、炭火鉢も用意した。だから十分だと思っていた。 けれど、セドリックは書類より先に、そのショールの端へ目を止めた。「それでは足りない」 「足りるわ」 「手が冷えている」 「元からよ」 「元からならなおさらだ」 「……」 その言い方が、あまりにも当然みたいで、リリアーナは一瞬だけ返す言葉を失った。 前世では、冷えた手は自分で温めるものだった。 暖炉へ近づく。 湯飲みを抱える。 膝掛けを増やす。 そういう小さな工夫を、誰に言われるでもなく自分で覚えた。 今は違う。 彼が当たり前のように気づく。 そして、当たり前のように指摘する。 ほどなくして、侯爵邸の年嵩の侍女がもう一枚厚手の膝掛けを持ってきた。色は落ち着いた青灰で、季節の花も飾り糸もない、実用品としての布だ。だがその素っ気なさが、逆に気を遣わせない。「勝手ね」 「寒いのは事実だ」 「そういうところ」 「何だ」 「以前は、こういうこと、一度も言わなかったでしょう」 「……」 その問いに、セドリックは一拍だけ沈黙した。 そして、ごく低く言った。「以前は、言う資格がないと思っていた」 「今はあると思うの?」 「思わない」 「じゃあどうして」 「……黙って見ているほうが、もっと悪いと分かったからだ」 その答えが、喉の奥に細い棘のように残った。 優しい。 でも、簡単に受け取れない。 受け取ってしまえば、昔の冷たさまで少しだけ説明がつくような気がしてしまうから。 説明がつくことと、許せることは違う。 そう自分へ何度も言い聞かせなければな
それは、大きな出来事ではなかった。 花束のように目立つものでも、夜会の真ん中で腕を取られるような劇的なものでもない。誰が見ても分かる「特別」ではなく、見落とそうと思えばいくらでも見落とせるような、小さな変化ばかりだった。 けれど、そういうものほど、気づいてしまうと厄介だった。 朝、部屋へ届くお茶の温度が、以前より少しだけぬるめになった。 最初は偶然だと思った。エマが気を利かせただけかもしれないし、侯爵邸の女医が「胃に負担をかけないように」と言ったからかもしれない。だが二日、三日と続くうちに、それが偶然ではないのだと分かった。熱すぎる飲み物を、リリアーナは昔から少し苦手としていた。口をつけるまでに間が要る。前世の食卓では、それを誰も気に留めなかった。冷めるまで待てばいいだけのことだと、自分でもそう思っていたから。 今は違う。 気づけば、出されるお茶は最初から少しだけ温度が落ちている。 温かいが、すぐに飲める温度。 誰かが、気にしている。 食事もそうだった。 以前のセドリックは、リリアーナが食べているかどうかを見ていたのか見ていなかったのか、判然としない時が多かった。前世では、その判然としなさ自体が苦しみだった。見ていても何も言わない。気づいていても触れない。食べられない日も、食卓を立つ背中へ視線が落ちるだけで終わる。 今は違う。 同じ席につく機会があれば、彼はまず料理ではなく、リリアーナの皿を見る。 パンを半分しか取っていない。 スープに口をつける前に、先に水を飲んだ。 肉へナイフを入れたまま、数秒止まった。 そういう小さな兆しを、今の彼は見逃さない。「それは無理に食べなくていい」 ある日の昼、そう言われたのは、肉の香りだけで胃が少し重くなった時だった。 伯爵家と侯爵家の間で、出立の日程を表向きにどう処理するかという話し合いがあり、珍しく同じ卓で昼食を取ることになった。父も継母も、最近の「関係修復らしい」噂を利用したいのか、表向きは以前よりも穏やかな顔を作っている。けれど、その穏やかさの中にある計算の匂いは、今のリリアーナにはもう隠しきれていなかった。 銀の蓋が開かれ、肉の温かい匂いが立った瞬間、胸の奥が少しだけむかついた。昨夜は眠りが浅く、今朝もパンと薄いスープしか入っていない。食べなければいけないと思うほど、
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ







