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第1話 もうあなたの花嫁にはなりません③

Author: なつめ
last update Petsa ng paglalathala: 2026-06-09 14:29:22

呼吸が浅くなる。

「お嬢様、本当にお加減が……」

「エマ」

 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。

 その純粋さが、ひどく痛かった。

「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」

「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」

「そう」

 やめなければ。

 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。

 やめなければ、また同じになる。

 同じ朝を迎え、同じ家へ行き、同じ沈黙の中で十年を削って、最後にはあの冷たい石畳の上で死ぬのだ。たとえ最後に彼が泣いたとしても、その涙一つで帳消しになるほど、自分の孤独は軽くない。

 思い出してはいけないような気もした。それでも、死の間際の彼の顔が焼きついて離れない。蒼灰色の瞳に浮かんでいた絶望。自分の名を呼ぶ声。頬に落ちた熱い雫。

 なぜ。

 どうして、そんな顔をしたの。

 あなたは私を愛していなかったでしょう。

 その問いが胸の奥で疼き、腹の底を熱くした。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。ただ、ぐちゃぐちゃに絡まった感情の中心にあるものだけは分かった。

 もうたくさんだ。

 もう、あんな人生はいらない。

「エマ、鏡を」

 侍女が急いで手鏡を差し出す。銀の縁に小花の彫刻がある、見慣れた手鏡だった。そこに映った顔を見て、リリアーナはしばらく息を止めた。

 若い。

 本当に若い。

 頬はまだ痩せこけておらず、目の下の影も薄い。睫毛は長く、翡翠の瞳は今よりずっと明るい色をしていた。蜂蜜色の髪は昨夜の眠りで少し乱れているものの、艶があり、痛みも少ない。唇は血色を保っていて、口元にはまだ「侯爵夫人らしい微笑み」の癖が刻まれていない。

 知らない顔ではない。けれど、前世の終わりに近づくほど鏡の中にいた女とも違う。

 これは、失う前の自分だ。

 その事実に、胸のあたりがきゅっと縮んだ。

「……戻れるのね」

 思わず零れた声は、誰に向けたものでもなかった。エマが「お嬢様?」と首を傾げる。リリアーナは手鏡をゆっくり下ろした。

「なんでもないわ」

 戻れる。

 人生も、選択も、たぶん。

 ならば今度こそ、自分で選ばなければならない。

     *

 午前の支度は、ひどく現実的だった。

 洗面用の水差しから注がれるぬるい水。石鹸のほのかな花の香り。髪を梳かす櫛の細かな引っかかり。コルセットを締める時の、肋骨の下にくる苦しさ。朝食のために部屋の外へ出れば、磨かれた廊下に春の陽光が細く落ちている。窓ガラスの向こうにはまだ硬い蕾の並木。給仕が運ぶ食器が小さく触れ合う音。バターの匂い。焼きたてのパンの香り。

 すべてが昔のままだった。

 昔のままなのに、リリアーナだけが違っていた。

 食堂へ入ると、伯爵である父が新聞を読みながら片眉を上げた。向かいには継母のイザベラ、その隣に異母妹のマリアンヌ。前世と少しも変わらない配置に、目眩のような既視感が襲う。

「やっと来たか、リリアーナ。婚約前に体調を崩されては困る。自己管理くらいきちんとしなさい」

「……申し訳ございません、お父様」

「お姉様、顔色が悪いですわ。緊張なさっているの? でも無理もありませんわね。ヴァレンティア侯爵様ですもの。あれほど素晴らしいご縁、滅多にありませんもの」

 マリアンヌが無邪気を装って笑う。

 その声を聞いただけで、前世の記憶がぞわりと肌の裏を撫でた。結婚後、彼女が何度も侯爵家へ遊びに来ては、哀れみと羨望をない交ぜにした目でリリアーナを見たこと。義母に媚び、使用人たちに気軽に指図し、帰り際に「お姉様って本当にお優しいのね」と囁いたこと。あの声の温度を、リリアーナは忘れていない。

「ええ。とても、緊張していますわ」

 そう答えると、継母が満足そうに頷いた。

「当然ね。あなたのような子に侯爵家への縁談が来るなど、本来なら奇跡なのですから。くれぐれも失礼のないように。結婚後はエヴェルシア家の恥にならぬよう、慎みを持ってお仕えなさい」

「……はい」

 お仕えなさい。

 妻ではなく、従僕に向けるような言葉だった。前世ではその言葉の違和感を飲み込み、自分が至らないのだと思い込んだ。だが今は分かる。この人たちは最初から、自分を娘ではなく、家門を飾るための駒として見ていたのだと。

 銀のナイフを取る指先に力が入りすぎて、皿の縁に小さな音を立ててしまう。継母が眉を顰めた。

「リリアーナ」

「失礼いたしました」

 パンを切る。バターを塗る。口へ運ぶ。

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